鄭成功生誕400年記念御献茶式・茶会に参加して |
松洽会 濵谷 静枝 |
春の総会の折に、ご宗家様より、台湾の英雄として崇拝されている鄭成功生誕400年記念式典開催のお話を伺いました。 それからアッと間に半年が経ち11月になりましたが、その間のご宗家様、奥方様、坂井様、松浦史料博物館の方々、台南市の皆様には、綿密なご計画、頻繁なご連絡、周到な準備等々に明け暮れなされた事と拝察申し心より感謝申し上げます。 また、奥方様には、献茶・茶会のしおり第1集・第2集を作製され表紙には、ご宗家様のカラー装画と巻頭言を頂きました。共に旅程、茶会の流れ、道具、役割等々参加者の行動の基盤となりましたこと心よりお礼を申し上げます。良い記念の冊子になりました。 出発前日、7日は日本の冬至、夏のような暑さから、日本中一気に冷気に包まれ冬支度に追われた一日でした。 一方、台南市の気温は、日本の真夏日に相当。覚悟を決めなければなりません。 東京グルーは羽田からご宗家様、奥方様、収様(別便にて出発)に17名の参加。 福岡グループは18名の参加、台湾桃園空港で収様のお出迎えを頂き、皆俄然元気になりました。 19時前にシャングリラホテルに到着、恐縮にもご宗家様、奥方様、坂井様他のお出迎えを受け合流、笑顔になりました。 9日(晴天)献茶・茶会本番の日です。 |
午前中は観光班と会場準備班に分かれての行動となりました。 準備班は専用バスで9時出発台南市延平郡王詞へ。既に鄭成功祠主室前の中庭はテント等が見事に設営されており、台南市の方々のご尽力に心より感謝申し上げました。 |
そして道具類が次々と運び込まれ夫々チェックしながら受け取り、汗を流しながら準備に大わらわです。 流石皆役割を自覚、手際よく連携を取りながら準備を進めることが出来ました。台南市の方々のご配慮で水屋に冷風機が設置され、冷風機前は涼風を浴び気持ちよく作業がでましたのは幸いでした。お心遣いに感謝です。 |
昼食をすませ、午後2時より御献茶式が始まりました。 司会者の開会の辞の後、台湾文化協会会長のご挨拶があり、三人の僧侶の読経と共に、ご宗家様の鄭成功への御献茶が泰然と始まりました。 点てられたお茶は収様によって中次され、台湾の方がお供えをされました。 台湾側の要請で、鄭成功祠の後方の「監国祠・太妃祠・寧靖王祠」のお三方様へ、奥方様、森さん、浜谷が天目でお茶を点て台湾の方々が供えをされました。 |
その後、台湾の来賓六名が廟にお参りをされ、続いてご宗家様、浜谷が廟に入り菊花、お線香をお供えさせていただきました。 台湾の平和を祈念しておられた鄭成功の志が守られますよう、また鎮信流の末永い繁栄を祈って拝礼いたしました。 |
会員はその場で起立、一礼を致し御献茶式は静粛に終わりました。 直ちに設えを薄茶席に。点前坂井さん、水屋松浦一之介さんで薄茶点前が、粛々と始まりました。 お菓子は百菓の図より蔦屋さんの創作一品、博物館製和三盆一品を添えました。この記念茶会のため、台湾の陶芸家に注文された菓子皿にのせ、お茶もお運び致しました。呈茶は140席余りで終了。お菓子がなくなりました。 |
余談ですが台湾呈茶席来賓の初老の紳士が水屋近くに来られ、何か?と申しますと「母がもう少しお茶が欲しいと言っている」とのこと、嬉しいご所望に、もう一服差し上げてと伝え、もし失礼にならなければと懐中の羊羹を差し上げると喜んで受け取られお運びの方とお席に戻っていかれました。お茶を喜んで頂けた嬉しいエピソードです。 呈茶終了後、ご宗家様の挨拶と、台湾文化協会会長のご挨拶で閉会の辞となりました。 全てが終わり、後片付けと思っていますと、台南市の方々から隣の会場での〝台湾茶芸〟へ是非とお勧めを受け参加いたしました。 初めて拝見致し、味わう台湾茶芸。点前は簡潔ながら基にある礼節は同じ。一服のお茶をもって心からお客をもてなす和敬の心は、国が違っても一つだと感じ、嬉しく頼もしく思いました。 茶芸の方々にお礼を申し上げ水屋に戻ると、すっかりきれいに片付けられており、驚き申し訳なく思いました。 台南市の方々、史料博物館の方々が片付けて下さったと伺い、大変な力仕事をと感謝申し上げます。 延平郡王祠に別れをつげ、ホテルでの〝台日茶友交流夕食会〟へ出席。台湾文化協会、鎮信流、松浦史料館の皆様併せて100名近い方々との夕食会が、司会者の進行によって通訳を交えながらの賑やかな会となりました。 夕食会終了後、松洽会の会員に御献茶式のための特製の菓子器を記念にと賜りました。思いもかけない有難く嬉しい記念のお品となりました。大切に致します。 10日は台北に移動し、陶磁器街の散策、その後故宮博物館へ。時間が足りず残念でしたが、ホテルヘ。 そして、松洽会会員だけの打ち上げ夕食会。久し振りにゆっくりくつろげ、奥方様お誕生日のサプライズで大いに盛り上がり、疲れが一度にとれ、和やかな夕食会となりました。これが鎮信流の親睦会です。料理も美味しく頂きました。 |
11日、福岡グループは16時過ぎの飛行機で帰国致し夜遅くに無事帰宅。壱岐の方々は12日早朝4時前帰宅とか。 東京グループの無事の帰宅をお祈りいたしました。 12日朝、奥方様より皆様へのお礼の御文を頂き驚きました。 一番お疲れが蓄積されておられるはずですのに、最後の最後までお気遣いを頂きお礼の言葉もございません 今回の行事が無事終えることができましたのは、一重にご宗家様、奥方様、収様のご配慮ご指導の賜物と心より御礼申し上げます。 収様の力強く温かいご配慮に感謝申し上げます。 そして坂井様の一方ならぬご尽力に御礼申し上げます。 鄭成功生誕400年記念献茶・茶会を振り返ってみますと、思いかけなく熱病のため39歳という若さで急逝された鄭成功の、台湾の独立と平和を願う強い志を、今なお受け継ごうと台南市の皆様の強い信念と熱意を嬉しく感じた、温かい献茶茶会でございました。 思えば、鎮信公様は1622年、鄭成功は1624年生まれ、400年前の同世代を生きられた先人の姿勢は、今なお人としての道を明確に示されておられると思います。 貴重な献茶・茶会に参加させて頂きお礼を申し上げます。 |
台南での鄭成功献茶式 |
松親会 松浦 一之介 |
鄭成功(1624-1662)は、台湾では「国神」の一人として崇拝されていますが、日本で彼の名を聞く機会はほとんどありません。彼は、明朝末期の海商・鄭芝龍を父に、平戸藩士の娘・田川マツを母に平戸で生まれました。芝龍は、明の海禁政策に反して平戸を拠点に海賊行為を行った王直のあと、そのネットワークを引き継いだ李旦の傘下にあったといいます。松浦家でいえば道可隆信公から宗陽隆信公までの四代、海外との交易で栄えた時代のお話です。こうした背景の下に誕生した鄭成功は、清の台頭に際し明の復興を期して活動し、当時オランダ東インド会社が支配していた台湾を平定しました。こうした功績から彼は没後、子孫らにより台南の延平郡王祠に祀られ、毎年例祭が奉じられています。 今年(2024年)は生誕400年という節目であり、王祠において11月9日に献茶式が執り行われました。台湾側、松浦史料博物館、鎮信流の各関係者による半年余りの準備を労うかのような快晴に恵まれ、式は滞りなく進行しました。僧侶による読経の中、廟所前に設えた点茶台では宗家が鄭成功に、また西廊前では奥方以下が太妃(田川氏)ら三方に茶を点じてお供えされました。引きつづき式場では、日本から持参した星野園製「一の白昔」と『百菓之図』より「合わせ落雁」をオマージュした蔦屋製の菓子を来場者に呈し、われわれも自服しました。日ごろ飲み慣れた茶と夏柑入りのどこか懐かしさを感じさせる菓子ながら、遠く離れた亜熱帯の空の下というセッティングに稽古場の畳の上とはちょっと違った味わいを覚えました。そのあと少し風が通るようになった頃、台湾側から茶芸の披露があり、数種の香り高い茶がわれわれに振舞われました。 |
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申すまでもなく献茶とは神仏(となった故人)に捧げるものであり、捧げられる側が実際に茶を飲むことはありません。献茶とは、あくまで捧げる側が捧げられる側の事跡を元に自らを再認識する為のものともいえるでしょう。鄭成功は、明朝復興という大きな理想を掲げて奮闘しますが、志半ばで病に倒れて38歳の若さで亡くなります。その無念さを想像するに難くありませんが、台湾建国の礎を築く彼の不撓不屈の精神は、今でも現地の人の大きな心の支えであると聞きます。このたびの献茶式はこうした彼の「遺徳」を偲ぶ場となりましたが、それにまつわる歴史的な故事が単なる過去の事実としてよりも、現代の「われわれを結び付ける機会となることの方が重要」、と閉式前に宗家の挨拶がありました。 余談ながら、式の終了後には宿泊先で関係者の親善会が催され、初めて会う方、再会する方と酒を酌み交わしました。鄭成功生誕400年を種に、彼の時代より前のこと、後のことなど話に花が咲き、海を舞台に活動した先人や先祖を想う一つの機会となりました。また席上では、呈茶に使われた宗家染筆の菓子皿(鄭成功が詠じた五言絶句の一節「南山開壽域、東海醸流霞」を染め付けたもの)を記念に頂戴しました。鄭成功が不安な気持ちを抱きながらも自らを寿いだこの台南の地で、彼の志の大きさに思いを馳せるとともに、今日のわれわれを結び付ける目には見えない不思議な縁と東シナ海に漂う霞のイメージが重なる台湾路となりました。 |