平戸のかくれキリシタンと正月行事
中国人海商王直の手引きによりポルトガル船が初めて平戸に入港したのは1550年(天文19)ドワルテ・ダ・ガマの船でした。時の領主松浦隆信(道可)は中国貿易の経験により、外国貿易の有利なことを知っており、大いにこれを歓迎し、貿易と分離することの出来ないキリスト教の布教も認めました。宣教師フランシスコ・ザビエルの平戸布教もこのときです。
1553年以後は毎年1隻から2隻のポルトガル船が来航し、1557年からはポルトガル政府の官許船が入港するようになると、やがて平戸には京都、堺の豪商はもとより、多くの商人が集まり「西の都」と呼ばれるほどの賑わいを見せました。
この間平戸における布教の信望は極めて厚く、ポルトガル船が平戸を去った後も信仰は衰えることがありませんでした。しかし1587年(天正15)豊臣秀吉のバテレン追放令に始まったキリスト教に対する弾圧は、江戸時代に入ると益々厳しさを増し、キリスト教徒は表面跡を絶ちひそかに潜伏切支丹として信仰を続けました。
明治初年信仰の自由を許されてから、多くの潜伏切支丹はカトリック教会に属し自由の信仰に入りましたが、弾圧当時の永い伝統と風習を守り続ける信者は「かくれ切支丹」と呼ばれ平戸・生月地方には現存しています。信仰自由な時代である現代社会になお弾圧下の形態を守り続け、カトリックとは異質の宗教形態をつくり出しています。
かくれキリシタンの正月行事(初詣で)について、平戸市・島の館博物館学芸員 中園成生氏によると、新年元日には多くの日本人が寺社を詣りますが、生月島や平戸島西岸のかくれキリシタン信者も「初詣で」を行ってきました。生月島では大晦日の晩、「親父役」という組頭の家の納戸に組の御神体(掛軸型の聖画)を飾り、元日に組の信者が参拝して鏡餅を供えました。平戸島の根獅子では元日の早朝「水の役」という役職(7名)が水を被って身を清めた後、「オロクニン様のカワ」という湧水で聖水を採取します。そのあと水の役達は、根獅子の信仰の元締である辻家に集まってオラショを唱え、聖水で信者の家を祓って回ります。 「1599~1601日本諸国記」によると、キリシタンは新暦で行事を行う上、新年を祝う事も無かったため、信者以外の人達が旧暦の正月を祝っている時に寂しくしていました。そのため司教達が旧暦の元日を「御護りの聖母」の祝日とし、キリシタンが祝えるようにしたとされます。かくれキリシタンが元日に行事を行うのはこの事に由来しているとのことです。

平戸市生月町元触小場「初詣り」行事
島の館博物館提供

中江ノ島 
世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産 
*禁教時代初期に平戸藩によるキリシタンの処刑が行われた記録があり、現在の生月のかくれキリシタンにとって聖水を採取する“お水取り”の重要な聖地として「サンジュワン様」などと呼ばれています。
松浦史料博物館
岡山芳治